当山について
当山縁起
当山について
当山縁起
鎌倉期の有名な大仏師「快慶」の作であると伝えられ、午年の旧暦初午日・1日のみ御開帳される秘仏である。
役の行者開山
空也上人読経念仏の聖地
鳥羽上皇勅願寺
小栗判官霊験
紀州田辺藩主安藤家祈祷寺
当山は1300年前の飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山され、その後天暦7年(953)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。
後に熊野詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。
当山の中興の祖と云われるのは、戯曲・浄瑠璃で有名な小栗判官こと小栗小次郎助重で、常陸の国小栗城で足利持氏の軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫中「瘡痍」にかかった。治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峯にたどり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し、「救馬溪観音」と名付けられたという。「生馬」の地名や「馬川」の川の名はこの霊験に由来している。江戸時代には紀州藩付家老紀伊田辺藩主安藤家の祈祷所として尊信を篤く受け、寛文4年(1664)に現本尊の厨子の寄進を賜り、嘉永5年(1852)には本堂を再建されるなどの庇護をうけた。
明治に入り廃仏毀釈のあおりを受け、一時無住となり荒廃するも、先住の努力と御本尊馬頭観世音菩薩の霊験を慕う人々の寄進により復興し現在に至る。
当山は熊野本宮への参拝道である山間部を通る「中辺路」と、海岸線を通る「大辺路」の分岐点に位置していることから、古くから熊野本宮への道中の安全を祈願した寺としても知られる。開基以来、観世音の霊徳を慕い、加護を念じて初午や月縁日の18日には羽織 袴に盛装し、参拝する人々は列をなしたと伝えられる。
現在は、人の姿は変われどもその敬心は昔と変わりなく、開運厄除の霊場として、又、桜・あじさい・紅葉の名所として、参拝する人は後をたたない。お正月初詣3ケ日には約7万人が参拝する紀南随一の霊場である。
大阪府貝塚市の「水間寺」の観世音は当山から勧請されたとの言い伝えもあるが、文献等は残っていない。